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人財と組織の育成を支援する「合同会社5W1H」のニューズレター

「納得できるように、物事を主体的に変えていく力」を持った人・組織こそが、「意義深い人生を送る能力」を持った人(から成る組織)であり、「贅沢さとは異なる豊かさを享受し、QOL(人生の質)向上を実現する能力」を持った人・組織である

「やらない」理由としての「才能」(第113号)

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こんにちは、合同会社5W1H代表の高野潤一郎です。

私は、「民間企業・NPO(非営利組織)・政府での就業、独立・起業、社会人になってからの博士号取得などを経験した者」として、転職・就職・進学・人事異動などについて関心のある方に向けて、話をして欲しい(→パネル・ディスカッションに参加して欲しい)という依頼を頂戴することもあります。

先日、そういったキャリア・デザインに関わる話の場で、「才能」に関係する質問をしてくださった方がいらっしゃっいました。他の場面でも、才能について、いろいろ考えていらっしゃる方もいるようですので、今回は、才能に関する、私の考えについてご紹介しようと思います。

 

「対象への思い」は本物ですか?

私は、「才能があるからやる」とか「才能がないからやらない」といった発言をされる方というのは、「対象に対する思いがどうというよりも、失敗したくない・自分を守りたいという感情が強いです」「対象への情熱がありません」と告白しているようなものだと考えています。

つまり、「『対象への思い』が本物であるなら、他者との比較・他者からの評価など関係なく、その対象に取り組んで当たり前」「あらゆることをやり尽くす前に、才能の差がどうこうなどと言うな!」と思っています。

( 「やり尽くす」の程度についてイメージしていただくために、次のような例をご紹介差し上げます。私は、世の中には「言葉だけでは伝わらない」もの(実際に体験しないとわからないもの)があり、「筆舌に尽くしがたい」という表現が適切な場があることに同意していますが、こういった表現を用いていいのは、「言葉を使い尽くして表現しようとした人」だけだとも思っています。つまり、「難しそうだから言葉で表現するのはやめました」というのは、「やり尽くしていない」ことになるということです。)

 

「対象への思い」の表れ:言行一致と本氣

本は(まずは)読むために買う、動画は(まずは)視聴するために入手するのであって、「買ったら、入手したら、それだけで安心・満足してしまい、学習しない」のでは、本人の変化・成長は望めないことは、みなさんご存知の通りです。(各種習い事やスポーツでも、服装や道具を揃えて終わりの人がいると、見聞きされたことがあるのではないでしょうか。)

私は「対象とする物事に、精一杯取り組まないなら、少なくともその時点における対象への情熱・愛情は偽物」だという考えを持っているため、「○○に、本当に興味があります。まだ読んではいませんが、先日、本も買いました。○○情報についても、ネットで動画があったのでダウンロードしてあります。まだ最初の数分しか視聴していませんが...。」などいった発言をする人を信頼するのに困難を覚える時があります。それは、発言者の言行が一致しておらず(※1)、その対象に本氣で(※2)取り組もうとしていないという姿勢でいると解釈するためです。

「対象への思い」の表れとしての、「言行一致」と「本氣」について、あなたはどのようにお考えになるでしょうか?

※1 言行一致に関連した話題に関して、C研(朝の研究会)配布資料の【Q8】の図を作成していました。こちらから、PDFをご覧いただけます。

※2 人や状況によって異なる「本氣」の定義
合同会社5W1H流「コーチング学習プログラム」のテキストでは、下記のような解説も紹介しています。


(前略) ここで言っている「本氣」というのは、状況によって定義を変えますが、例えば、「心に抱くヴィジョンを現実のものとするために、自由裁量時間の8割を投資し、(他者の権利を尊重し、社会正義や道徳に反しない範囲で)何でも取り組むこと」とか「○○について、1日2時間、年に300日以上、この先8年間の経験を積むこと」などといった設定の仕方で定量化し、第三者にもわかるようにすることを目指します。 (後略)


 

 「生得的な能力」としての「才能」

本氣でない人、物事に精一杯取り組まない人は、「やらない理由探し」「やらないことの正当化」に熱心です。そして、そういった文脈で、冒頭で触れた「才能」がたびたび登場するのです。(…趣味などに関する話であれば違和感を覚えないのでしょうが、自分の仕事に対して、本氣で取り組まない理由として「才能」を持ち出す方には、違和感を覚えてしまうのです。)

ここでは、また別の角度から「才能がないからやらない」という発言について考えてみましょう。

例えば、「物事の因果関係を明らかにする、科学的な思考法」に慣れていらっしゃる方や弊社流の質問力やコーチングを学ばれている方であれば、ここで言っている「才能」が何を指すのか、発言者に確認を求めそうです。

また、もし、発言者の指す「才能」が「○○に関する、生得的な能力」である場合には、「○○に関する、生得的な能力」をどのように測定できたのか、その計測結果を誰(どんな母集団)と比較して「ない(劣っている)」と評価したのか確認するかもしれません。

さらに、「仮に、生得的な能力の差(スタートラインの違い)があったとしても、その違いにいつまでも拘泥し続けることが、自分や周囲にとって望ましい結果をもたらしてくれると信じていらっしゃるのには、どういった背景があるのかお教え願えないでしょうか?」などと重ねて尋ねるアプローチを選ばれるかもしれません。(…もちろん、コミュニケーションの「目的」を共有できた上で、「人間関係に及ぼす影響などに配慮」した上で、適切と判断すればですが。)

20世紀初頭には、「生まれか育ちか(氏か育ちか)」という話が加熱していたようですが、現在では、少なくとも、「生まれだけで人の能力とか性格とかの限界が決まってしまっているわけではない。確かに、ある分野における、ある種の傾向(□□の人の場合には、○○した方が△△しやすい...など)はあるかもしれないけれども、目的達成のための手段をうまく選べば、かなりいい結果を出すことができる」「考え方・行動・習慣などを適切に選ぶことによって、遺伝子レベルから自分を変えていくことができる」といった理解が常識となりつつあるようです。


参考情報

※3 エピジェネティクス(epigenetics)
ガン研究などから、「(遺伝子が持つ情報は変えずに)遺伝子の振る舞いを、環境によって変化させることができる」ことが明らかになってきています。これは、さまざまな経験を通じて、染色体上のスイッチが切り替わり、遺伝子の活性が長期的に変わってしまうということです。遺伝子の変異なしで、遺伝子の活性を決める化学的な標識が遺伝子に付くことを「エピジェネティック」修飾と呼び、「エピジェネティクス」という分野の研究が注目を集めるようになっています。

※4 52ヶ国の数学成績データ解析
下記の論文の著者は、「男女の成績差には、遺伝的な差はなく、社会的・文化的要因を反映しているに違いない」などといった見解も示しています。
"Debunking Myths about Gender and Mathematics Performance", Jonathan M. Kane and Janet E. Mertz; Notices of the American Mathematical Society, VOLUME 59, NUMBER 1, JANUARY 2012


 

「心理学的な自己防衛手段」として使われる「才能」

ここでも、また別の角度から「才能がないからやらない」という発言について考えてみましょう。
「才能がないからやらない」という発言をされる方々と直接話させていただいた経験、および、同様の発言をする人に接したことがある方からの情報に基づいて判断すると、「才能がないからやらない」と発言される方は、ほぼ例外なく、

  • 才能に恵まれている人は、それほど努力しなくても、非常に高いレベルのパフォーマンスが実現可能だ
  • 高いパフォーマンスを発揮する人と同等のパフォーマンスを発揮しようとする際に、多大な努力が必要となる人は能力が低い

といった考え方(信念)を採用されていることがわかりました。

こういった考え方(信念)をお持ちの方にとっては、上述でご紹介したような「本氣」の姿勢で対象に取り組むことは、非常にリスクの高いことに思えるようなのです。なぜなら、「本氣」で取り組んでいた訳でなければ、「やればできたんだけれど...」「やればできるんだけれど...」「身体的な特徴が○○には不向きらしくて...」などと言えるのですが、もし「本氣」で取り組んだ結果がかんばしくないと、こういった「言い訳」が使えなくなるからです。

つまり、「『自分が○○について能力がない』と自分で認識したり、他者から認識されたりするのを避けるため」「現実を直視することを避けるため」に、「才能がないからやらない」という表現を用いていらっしゃるようなのです。

こういうのも、「プライド」が高く、「恥」を異常に恐れるために、学習を阻害しているという一例なのかもしれませんね。

 

「自分を大きく映す鏡」が欲しい人には、コーチングは不適

ここまでお読みくださった方の中には、「『ほとんどの事柄の成否は、遺伝・血統・生まれ持っての才能などで決まる』などといった『盲信』は、『物事の因果関係を明らかにする分析思考を停止』し、『人間の意思・選択の自由を価値の低いものを見なして』おり、二重の意味でヒトをバカにしていることになるのではないか?」という私の考えに賛同してくださる方も増えてきたのではないでしょうか?

自分がいつ生まれてきて、いつ死ぬのか選べないのと同じように、生得的な能力の差についても、自分のコントロール可能な対象ではありません。たとえ、生得的な能力の差(スタートラインの違い)があったとしても、その違いがあることにいつまでも拘泥し続け、自己防衛・自己正当化のためにエネルギーを消耗し続けるようでは、自分や周囲にとって望ましくない結果をもたらすのではないでしょうか?

私がコーチとしての立場で、自分が影響を及ぼすことができない事柄・対象(生得的な能力の差など)を「やらない理由」として主張される社会人と接した時に思うのは、「あなたには、あなたを承認してくれる人や抑圧した感情を解放してもいいと思える相手(セラピストやカウンセラー)などが必要なのであって、今の段階で、『現実を直視し、GoodではなくGreatを目指そうというコーチング』を活用しようとするのは、『百害あって一利なし』ですよ」ということです。(…現状、特に日本では「コーチング」の定義が人によって様々に異なり、本来は(アドバイスや実体験のシェアなどを行う)「メンタリング」や(精神的な拠り所となり、抑圧された感情の解放などを促す)「ブリーフ・セラピーやカウンセリング」などと称すべきサービスを「コーチング」と呼んで提供する人々がいらっしゃるため、消費者に混乱を与えているように感じています。)

弊社の場合には稀ですが、上記のような考えを相手に受け入れられる形で伝え、他社のサービスの利用をお勧めするにはどうすれば良いか、頭を絞る時もあります。コーチングを活用しよう!といった向上心があること自体は素晴らしいことなのですが、現状、「実物より魅力的に(例:大きく、美しく、有能そうに)映る鏡を見せれば喜ぶ」というステージにあり、「現実を直視する」心構えが出来ていない方には、それ相応の段階を踏んで、後日、無理のない形で弊社流コーチングを活用していただきたいと思っています。

過去の結果としての現在より、未来の原因としての現在を大切にしたい」と考える方と、何かの機会にご一緒できるのを楽しみにしております♪

 

さて今回は、

  • 「対象への思い」は本物ですか?
  • 「対象への思い」の表れ:言行一致と本氣
  • 「生得的な能力」としての「才能」
  • 「心理学的な自己防衛手段」として使われる「才能」
  • 「自分を大きく映す鏡」が欲しい人には、コーチングは不適

といった切り口から、「才能」に関する、私の考えについてご紹介して参りました。

 

あなたは、どのような印象をお持ちになり、何を考えられたでしょうか? 何か少しでもお役に立てれば幸いです。

それでは、また次回のニューズレターでお会いしましょう♪

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